ハワイ王国に影響を与えた女性たち

ハワイ王国の時代において、王や女王に影響を与えた女性たちがいた。

その女性たちを紹介していきます。


カアフマヌ(1768-1832)

名前は、Kaahumanu

1768年ころにマウイ島で生まれ、ハワイ島で育った。

父親のケアモクはカメハメハに仕える強力なアリイ(王族)で、

母親のナマハマも高貴な家の出身であった。

10代のうちに、後のカメハメハ一世の妻となった。

夫に負けないくらい強くて大柄な女性。身長が180センチを超え、体重も100キロ以上あったとされる。

バナナの実のような柔らかい肌、流れるような美しい黒髪の持ち主で、

当時のハワイアンの抱く理想の女性像を体現していた。

カメハメハ一世は生涯で20名ほどの妻をめとったとされるが、

カアフマヌはとりわけお気に入りの妃であった。

 

一世はケオープーオラニという高貴な女性を妻にして、その間に生まれた二人の息子(後の二世と三世)

の後見人にカアフマヌを任命。

カアフマヌの妹も妻にしたり、多くの妻を迎え入れたことに嫉妬を抱いたカアフマヌの機嫌を取る為の

行動であったとされるが、この夫婦の間柄は嵐のようであったともいわれている。

 

1819年にカメハメハ1世がこの世を去ると、カアフマヌの政治権力は急速に拡大し、

力不足のカメハメハ二代目を心配し、自ら王朝の指導者となるべきだと考え、

カメハメハ一世の意思に沿って、二世とともに私が「クヒナ・ヌイ」(摂政)として統治するべきだ

とカメハメハ二世に対して宣言し、事実上の女王としてあらゆる政治権力を発揮するようになる。

 

カアフマヌはカプ制度を廃止することで、王と保守派の権威を弱めようとした。
二世へもカプを破ることを強要した。

カプを破れば必ず神の怒りにふれ、罰が下ることになっており、ハワイアンはそれを信じていたが、

実際カプを破っても何も起きなかったことで、保守派の力は弱められることとなった。

 

カアフマヌはハワイの信仰の礎であったヘイアウ(神殿)の破壊を命じた。
島々にある立派なヘイアウが次々と破壊されたが、神は誰も罰さなかった結果、

古来の神、伝統に対する信仰が揺らぐこととなった。

 

カプの伝統が崩壊した直後の混乱した時期である1820年に、アメリカ人宣教師が来訪した。

カプに代わる新しい価値観や宗教を求めていた一部のハワイアンに、キリスト教のメッセージが刺さった。

実際、カアフマヌもこのキリスト教に惹かれるのと同時に、守旧派の力をさらに奪う手段であると感じた。

 

1823年に二世と妻がイギリスに向けて旅立ち、その後病に倒れて死去する。

その二世の不在に乗じて、カアフマヌはカプの廃止を正式に宣言する。

その宣言と同時に、宣教師の教えの影響を受けて規則を発布する。

その後、より幼い三世が王となると、カアフマヌはより力を持つことになる。

 

1825年に、カアフマヌはついにキリスト教に改宗。キリスト教の価値観にもとづいた政策を打ち出す。

カアフマヌの行動によって、キリスト教は大いに発展する。

教会の普及に伴い、読み書きを学び、世界1位と呼ばれるほどの識字率の高い社会となった。

 

1832年宣教師らの努力によって、ハワイ語の新約聖書が出来上がった。

この完成を見届けて、オアフ島のマノアで生涯を閉じた。


エマ・ナエア・カレレオナラニ・ルーク (1836-1885)

名前は、Emma Naea Kaleleonalani Rooke

エマはカメハメハ一世と縁の深い家の出身であった。

曾祖父はカメハメハ一世の兄弟、祖父はカメハメハ一世の腹心として仕えたイギリス人のジョン・ヤング。

幼いころに母方の叔母であるグレース・カマイクイ・ヤング・ルークの養子となった。

グレースの夫がイギリス人であったこともあり、エマはイギリス文化の影響を強く受けた。

 

美しくておしゃれ、当時のハワイ社交界のファッションリーダーともいわれたエマは、

1856年20歳の時にカメハメハ四世と結婚。
その2年後に二人の間に待望の長男が誕生。カメハメハ二世・三世ともに世継ぎがいなかったため、

ハワイ王国で久々の慶事であった。

しかし、その4年後に長男は原因不明の高熱に侵され、病に倒れ、死去してしまう。

翌年、落胆から気力を失った王は後を追うように死去。

それを受け、王の兄がカメハメハ五世となり、エマは王国の表舞台から姿を消した。

 

その後、慈善活動に精を出し、学校を設立したり、夫とともに創設した病院の運営を助ける活動を行った。

1872年五世が死亡し、カメハメハ家の王が途絶えてしまうということで、エマの復権を求める声が

ハワイ社会から上がってきた。

そのため、第六代の王を決める選挙で候補になるが負ける。しかし、6代目になったリナリロもすぐに死去。

その後7代目を選出する選挙においても候補となるが、反アメリカの立場であったエマは多くのハワイアンに支持を受けたものの、利益を考えていた白人住人の支持は得られず、さらに女性であったこともあり議会内選挙で落選。

エマの支持者たちは納得がいかず、議会に乗り込んで暴行をはたらいたものがいたり、

市内が大混乱になったりした。

そこで、王国政府はアメリカとイギリス海軍に上陸を依頼し、暴動を鎮圧したということもあった。

 

この後、カラーカウアが王となってからもエマが無くなる1885年まで、カラーカウアに対する対抗勢力の象徴的存在であり続けた。

エマは自らをカメハメハ王朝の継承者と位置づけ、ハワイアンの利権を代表する存在として活動を続けた。

そのため、カラーカウアは白人の利権側に立つ王とされてしまったこともあり、長い間苦労を強いられた。

それでも、カラーカウアはエマにたいして直接敵対的な行動はしなかったし、政府主催の儀式には必ず書体場を送り、彼女のための席も確保していた。

エマが参加することもなかったし、以前まで交流のあったカラーカウアの妻であるカピオラニやカラーカウアの妹であるリリウオカラニとは口も利かなくなったとされている。


プリンセス・カイウラニ (1875-1899)

名前は、Victoria Ka'iulani Cleghorn

1875年ホノルルに生まれた。

父はスコットランドからハワイへ移住した商人で、後にオアフ島の知事を務めたアーチボルド・クレッグホーン、母はリリウオカラニの妹であるミリアム・リケリケ。
第6・7代王の姪であり、子供のいなかった叔父と叔母の後継者として、ハワイの女王となるべき人物であった。両親は現在のシェラトン・プリンセス・カイウラニ・ホテルのところに家を建て、時代の女王として育てられた。
その後1887年に母が死去。死の直前に、母から

カイウラニは将来結婚することも女王になることもないと予言される。

しかし、この予言は現実のものとなってしまう。

 

母親の死後、カラーカウア王の指示でイギリスに渡り、教育を受けることとなる。

その後、カラーカウア王の死、叔母のリリウオカラニ女王の就任などのニュースに不安を覚えつつ、

イギリスの地で女王となるためにふさわしい教養を身につけていく。

1893年に教育を終え、ヨーロッパ大陸を旅してハワイに戻る準備をしていた時、リリウオカラニ女王が

クーデターで退位を強いられ、ハワイ王国が崩壊したということを知る。

カイウラニは憤りと絶望感に打ちひしがれながらも、アメリカに向かった。

 

当時、アメリカでは野蛮なハワイアンには国を統治する能力がないという説が流れ、クーデターを引き起こした白人資本家層の首謀者たちはやむを得なく政府を引き継いだのだとアメリカ政府に説明していた。

これに対して、カイウラニの姿は「野蛮な王女」ではなく、ハワイアンは文化と教養を身に着けた人間であることをアメリカ人に証明することとなった。

17歳のカイウラニは落ち着いており、堂々とした姿でハワイ国家が回復されるよう、アメリカ国民がこの不正義を正すために協力するよう呼びかけた。

アメリカの新聞は、カイウラニを優雅で美しく、威厳があると報じ、まるでスターのように彼女がまとった衣装からヘアスタイルまで詳しく報じたという。

カイウラニをはじめとするハワイアンの活動が功を奏し、アメリカ政府はすぐに併合することはしなかった。むしろ、リリウオカラニに王権を戻すことすら検討することとなった。しかしながら、それは実現せず、クーデターを首謀した資本家たちによりℍわい共和国を確立することとなった。

 

その後1897年にハワイに戻る。公式の王女ではないものの、ハワイに住む多くの人々はカイウラニがハワイの指導者になるであろうと予想していたし、期待していた。
しかし、1898年に入るとアメリカはスペインと戦争をはじめ、アジア進出の足掛かりを作り、アメリカとアジアの中心にあるハワイを無理やり併合することとなる。つまり、アメリカの領土となった。

アメリカの国旗がイオラニ宮殿にあげられる儀式が行われている間、カイウラニはリリウオカラニが住むワシントンプレイスに他のハワイアンと集い、深い怒りと悲しみの気持ちを共にした。

 

そこから、カイウラニはアメリカ領土となったハワイにおいて、ハワイアンが参政権をはじめとする十分な権利が得られるよう尽力することとなる。

その後1899年23歳の若さで病死してしまう。

彼女の家に住む愛する美しいクジャクたちは彼女が息を引き取った夜、大きな声で鳴き続けたという。

日本においては、カラーカウアの提案で日本の皇族との政略結婚の話もあり、運命に翻弄された王女というイメージも強い。

そんな彼女の大好き甘い香りを漂わせる真っ白なジャスミンの花の名をハワイ語で「ピカケ」としたのは、彼女が大好きな鳥であるクジャクを英語で意味するピーコックという言葉から来ているといわれている。