フラの歴史

フラの始まり

フラの始まりは諸説あり、いつからフラが踊られたか、どこから来たのかが必ずしても定かではない。


*シンプルに歴史の背景などから見ると…

古代ハワイには文字がなく、すべてを口承で伝えてきた。それは長い詞で、丸暗記され、詠唱された。
詞にはさまざまな種類があり、祈り、神話や物語、神々や首長を称える賛歌、自然の美しさや愛についての描写、事実を綴った歴史や家系図、普段の生活の様子などがある。
それにリズムをつけ、身振り手振りなどを取り入れおどりで表現したものをフラとした。

 

*最古のチャント(詩)のひとつ「クムリポ」または創世のチャントと呼ばれるものによると、

世の中には2種類の人間しかいなかった。

1種類目は、人々を養う場所である大地 アーイナに住む者 カナカ マオリ(人間)。

2種類目は、不死のもの、神が住む天(ラニ)に住む者 アウマクア(神)。
私たちの家族の中には、カナカマオリとアウマクアの2種類の人々がいて、互いに深く関わっている
その天と地を結ぶ力が、オハナ(家族制度)であるという考え方。

その中で、フラは人間であるカナカマオリが神であるアウマクアに対して、敬いの意を表すための

方法であり、コミュニケーション手段であると考えられている。
また、そのころは戦士たちを選ぶ手段にも使われていたという一面もあった。
普段戦いが少なく、戦いがあっても民族内部で起こるものであったため、身体的能力を考えると
1人の優れたフラダンサーは10人の優れた戦士に匹敵されると言われていた。

いろいろな用途があったようだが、主には神への祈りの儀式、次世代へ言い伝える、友人などを楽しませるためのエンターテイメントとしてであると言われている。

 

この頃のフラは神への奉納などが主流であったため、フラ・ダンサーの多くは男性であったと言われる。

しかもできるだけ筋骨たくましい男性であることが重要とされ、神々は最も技能に優れ、機敏でたくましい、勇気があるダンサーのみを受け入れたとされている。
その男性たちは、神殿に所属していました。
そのころの女性のダンサーは補助的な役割とされ、戦時においてもより安全な立場にいることができ、
男性が歴史や武勇伝を語る曲などもある中、家事や育児など日常生活に関するものが多いといわれている。
この頃でも男女共有のテーマはあり、それは「愛」である。

男性のフラがどんどん女性のフラへ

1778年 ジェームズ・クック船長がハワイ上陸。

クック船長は男性、女性両方のフラ・ダンサーから踊りによる歓待を受けます。

船員たちが興味を示したのは、女性たちによって踊られるフラのみでした。

 

1819年 カメハメハ大王の死亡をきっかけに、ハワイ社会を数千年支えていたカプ(禁令)の制度が廃止。

死後間もなく、長老の指導の下、ハワイのすべての神殿(ヘイアウ)とそこに安置された偶像が破壊され、

 

神殿で行われていた儀式や慣習はフラを含めすべて廃棄されました。
この時点で、男性のフラは公の場もプライベートの楽しみとしてもほぼ追放される形となってしまった。

迫害を受けたフラ

現在踊られているカヒコ(フラについてのパート参照)は、すべて西暦1800年(江戸時代の後半、目地が始まる70年ほど前)以降、あるいは西暦1800年の時点で受け継がれたもの。

1820年ごろから、読み書きがアメリカからの宣教師によって伝えられ、口承という伝統も文字に置き換えられるようになった。

しかし、この頃西洋から来た宣教師たちは、半裸状態で踊るフラを淫らな踊りとして敬遠し始める。

 

1830年カメハメハ1世の愛妻であり、後を継いだ2世とともにハワイ統治していた折衝 カアフマヌ女王は、

西洋文化とキリスト教を深く受け入れ、「公」でフラを踊ることを禁止。

これに反対する首長もおり、「禁止令」を無視した人々もいたが、だんだんと公で踊る人は減り、

時代とともに密かに踊るようになった。

 

1851年カメハメハ3世のころには、「公」で踊るにはライセンスと多額の上納金を必要とする規則が出来、

より一層西洋文化の色が濃くなっていった。


しかしながら、その中にもハワイの伝統であるフラを守ろうとする人がいたことも事実としてあり、

目の届かないところでフラが踊り、受け継がれてきてた。
これが現在のフラ・カヒコの源流とされる。

 

1820年~1874年頃のフラの苦境の時代、上記以外にもより多くの変化やストレスの多い時代であった。

 

はしか、黄熱病、マラリアなど疫病の流入により、原住民が多くなくなりました。
その時に多くの偉大なクムフラや優れたハウマナ(生徒)がなくなったということは、
その後のフラ文化への影響は大きくありました。

フラの復活

1883年(明治16年)ハワイ王国第7代カラーカウア王は完全にフラを復活させる。

自らの載冠式を行い、そこで行われた盛大な祝宴で披露させた。

この頃、西洋の楽器や音楽も多数持ち込まれ、王族の中でもクラシック音楽やピアノなどが愛され、

王族が書き下ろした楽曲もたくさん誕生しました。
また、ポルトガルからの移民によりもたらされたブラギンハという楽器からウクレレも誕生。

そして、今のハワイアンミュージックの元が生まれ、こういった音楽にのせて踊る新しいフラである

アウアナが誕生する。

女性だとムウムウと呼ばれるドレス、王室の人が着用するようなホロクーと呼ばれる裾が長く引きずるようなドレス、そして靴を履いたりして踊ったりしていた。

 

この頃フラを教える者である「クムフラ」は、社会的にその地位は認められており、保護もされていた。

そのためそれなりの生活が送れるだけの環境があった。
しかし、クムフラになるためには、フラ・カプ(カプ=タブー)という厳しい禁忌事項に従い、

修道士のように人生のすべてをフラに捧げることを約束しなくてはいけなかった。

1887年ハワイ人ではない人たちが多く入り込んでいる議会などによって押し付けられた憲法により、
ハワイ文化への強い風当たりが始まる。
ハワイ人ではない宮廷顧問により、カラーカウア王が設立してハワイアン独自の芸術と科学を

奨励した大学、ハワイ文化復興事業をやめるよう強要。

 

その後1891年カラーカウア王死去とともに、大学は廃止、フラに影響があるとされるハワイ格闘技
Luaルアなどハワイ文化の多くは地下にもぐることになる。
しかしながら、フラはエンターテイメントとして形を変えたことで
公の場においてもどうにか生き残っていくことになる。

カヒコの衰退、アウアナの変化

1898年(明治31年)ハワイのアメリカ合衆国領への編入を宣言され、同日にイオラニ宮殿に掲げられたハワイ王国国旗が降ろされ、星条旗が掲げられる。これにより、ハワイはアメリカ合衆国の準州とされ、ハワイ王国の歴史は完全に幕を閉じる。
その後のハワイ経済はプランテーション事業と観光産業に支えられた。

いくつもの戦争もあったが、フラは観光の目玉、エンターテイメントとなっていった。

それにより、ハワイアンミュージックがたくさん生まれ、観光客を前にフラを披露する機会が増えていた。

 

この頃、すべてがアメリカ化していった時代の中、ハワイ語を話すことは恥とされ、
英語を話すことがよしとされた時代となり、1901年にハワイ語の使用が禁止となる。
そんな時代となったため、以前のように「クムフラ」として生活をすることが厳しくなり、

さらにクムフラになろうという選択肢が非現実的なものとなっていったため、
クムフラが激減していった。
当時は、クムフラとして生涯を捧げたものだけがカヒコを継承しており、

一般人はカヒコを踊るなどという認識もなく、人前で踊ることも少なかった。

そして、フラ・カヒコを教えるクムフラとアウアナを主に教えるフラの先生とは区別され、

フラの先生がいるフラスクールはエンターテイナーを育てる学校として看板を掲げていた。

つまり、この頃は伝統を追求することよりも、観光客を喜ばせる商業ダンサーの需要が高かった。

 

けして、フラ・カヒコが軽視されたわけではなかった。

普段目にする機会の少ないものとなったため、より神聖なものとして
継承されるクムフラたちの間で大事に守られていった。

 

第一次世界大戦中、米軍の兵士よってハワイが見直され、フラも人気を呼ぶことになります。
この頃も発明されたばかりの映画の背景に登場するような女性のフラダンサーが
たくさん求められるようになる。


1959年にハワイが合衆国の週に承認され、それに伴いフラやほかのハワイ文化に関する制約が

取り除かれます。
1960年(昭和35年)ごろは、ハリウッド映画もハワイに目を向けるようになり、

エルビス・プレスリーが「ブルー・ハワイ」を歌ったりし、よりエンターテイメント性が高くなった。

そのころ流行したハワイアンミュージックは、依然とは異なり

「ハパ・ハオレ・ソング」(ハパ=半分、ハオレ=白人という意味)と呼ばれる

英語のハワイアンミュージックが多く発表されていき、日本にも普及していった。 

現在の形になるまで

ハリウッド映画などでハワイが取り上げられるようになってから、
1960年代(昭和35年以降)に入ると、アメリカ本土の公民権運動(人種差別から完全なる平等を求めたムーブメント)のあおりを受け、伝統に誇りを持とうという意識が強くなった。
その中で、ハワイでもハワイ人としての誇りと文化復興が叫ばれるようになった。

それまで衰退化していっていたカヒコの大切さ、消えゆくハワイ語の重要性を問われ始め、

これらを教える者(クムフラ)、学ぶ場所(ハーラウ)、学ぶ者(ハウマナ)が増加。
この頃は、以前のような人生をかけてというような修行方法の伝統は変化していった。
すべてを暗唱する口承文化から文字文化に発展を遂げていった。

1972年ごろから商業ダンサーを育てるダンススクールという認識はなくなり、フラの源である

カヒコとアウアナを伝統的にも学問的側面からもきちんと学び、ショーなどに出演し、

人前で踊る場合もクムフラの師事のもとで踊るというスタイルが根付いていった。