ハワイ王国 8人の支配者

ハワイ王国は約80年くらいの時代で、7人の王と女王が存在していた。

支配順に記載していく。


カメハメハ一世 (1758-1819)

カメハメハ一世の名前は、実はとっても長い名前。

Kalani Pai'ea Wohi o Kaleikini Keali'ikui Kamehameha o 'Iolani i Kaiwikapu Kaui Ka Liholiho Kunuiakea

 

カメハメハ一世が生まれた頃は文字がなかったため、正確な出年や生誕地などは不明。

伝説をもとに推測すると…

1758年頃 ハワイ島に生まれ、アリイと呼ばれる支配階級の出身であった。

幼いころに、「この子は将来支配者たちを殺害するだろう」と予言され、
当時の王に殺されそうになったため、人里離れたところで養父母のもと育てられた

カメハメハとは、ハワイ語で「孤独な人」「離れた人」という意味がある。

その後、王の許しを得て、有力なアリイとして成長。
類まれな力持ち、高身長で優れた戦士であった。

 

クック船長の到来後、欧米人が到来し、ハワイ社会が急速な変貌を遂げていく中、

ハワイ島を支配していたカラニオープウ死去後、後継者争いが起こり、
カメハメハは力を発揮。ライバルを倒して、ハワイ島西部を抑えた。

その後、南部の支配者であった強敵ケオウアと戦うことになったが、
その際キラウエア火山が爆発し、カオウアの多くの兵士が死亡し、カメハメハは容易に勝利。

人々は、カメハメハがキラウエアに住む女神ペレの守護を受けたと考え、
ハワイ島を支配下に置くことができた。

 

ハワイ島だけに飽き足らず、ほかの島々の制服をもくろんでいたカメハメハは、

1795年にマウイ島、その後オアフ島へと侵攻した。

マウイ制圧は容易であったが、オアフ島には壮絶な戦いの末、戦いに勝利した。

その後、カウムアリイが支配するカウアイ島とニイハウ島を手に入れようと試みた。

制圧した島々をまとめつつ、新たに攻めるという野心はなかなか実現しなかった。

1810年にカメハメハの支配力がますます強まる様子を見ていたカウムアリイは、

抵抗することをあきらめて、自らの地位を返上し、カメハメハの統治下に入ることを選んだ。
つまり、念願の初めてハワイ諸島を1つの国としてまとめた。

 

なぜカメハメハは今まで出来なかったハワイ諸島統一ができたのか?

巨大な軍事力と指導力というものがあったが、そのほかにも欧米の国々との交流にも勝因があった。

クック船長とも会ったことがあるとされているカメハメハだが、

かなり早い段階から欧米の技術や知識、物資に注目していた。

しかし、欧米の文化を一方的に崇拝し、安易に取り入れるようなことはしなかった。

むしろ、ハワイの伝統を非常に大切にしていた。

そのため、欧米の文化をほどよく取り入れ、ハワイの伝統文化のバランスを巧みに維持することで
成功したとも言われている。

そのため、ハワイの外から来た人がハワイで土地を所有することを許さず、キリスト教に心を奪われる
こともなかった。

この頃は、何百人もが参加するような大掛かりなフラも存在し、

喜びの時、悲しみの時、歓迎の時など生活の中にいつもフラが存在していた。

 

この時代に国民の意識に「ハワイアン」としての意識を植え付けさせたということも、

カメハメハが「大王」と呼ばれる所以である。

外との接触がないころには言語や伝統、信仰などを共有しながらも今日のような一つの集団としての

意識はなかったが、カメハメハにより外の世界との違いを体感したことにより、一つの集団として意識などを感じることとなった。

 

中国史で言うところの「始皇帝」の存在であり、すべてのエリアの王・首長たちをまとめ上げ、

統一した力は計り知れないものだった。


カメハメハ二世 (1797-1824)

カメハメハ二世の名前は、

Kalaninui kua Liholiho ike kapu 'Iolani

偉大なる王 カメハメハの息子である通称「リホリホ」が後を継ぐこととなる。

彼は、カメハメハとケオープーオラニの間に生まれた第一子。

そのため、幼少期から後継者として注目されていた。

一世がなくなった時、リホリホはまだ22歳の若者(意外といい年なんだけど…)で、

ハワイ王国を統治するほどの経験も力もカリスマ性もなかったといわれる。

王政も就任当初から迷走気味であった。

当時、一世のお気に入りの妃であったカアフマヌがリホリホと共にハワイを統治することを自ら

宣言し、クヒナ・ヌイという摂政のような立場になっていた。

当時の欧米人の目からみるリホリホの姿は、気は良いけど、決断力に乏しい面があったようであるが、

イギリスの宣教師によると、「知識欲があり、勉強熱心である」という印象があるようだ。

 

カメハメハ一世は海外との貿易を積極的に推進しながらも、昔ながらのハワイの思想や儀式を守ることにこだわっていたが、一世の死後の混乱に乗じて、王国内で守旧派(海外との取引を減らし、伝統的なハワイの復活を願う)、改革派(欧米の証人と積極的に取引をして経済を豊かにすることを願う)の2派がより対立を深めることとなる。

しかし、リホリホはこのような混乱の時代を如才なく乗り切る術をもってういなかったため、彼の治世はわずか4年程度で終わってしまう上に、実績なども乏しかったため、ハワイ王国の歴史の中でも印象の薄い存在となっている。

 

短い治世ながら、ハワイ激動の時代ともいわれ、ハワイの伝統を大きく揺るがすことになる出来事がある。

1つは、カプ(禁忌)の廃止である。

当時のハワイでは階級制度があり、王などの権力者が禁忌によって人を支配する方法を

カプと呼んでいた。

階級ごとに食べてはいけないもの、やってはいけないこと、訪れてはいけないことなどの禁止項目を

細かく設け、それを破る者は厳しく罰するということ。つまり、法律といったところだろうか。

階級ごとであるため、権力者たちには特権が与えらるなど例外を設けることで、権力を強め、

安定した支配を築いていた。ちなみに、このカプはポリネシアの島々で発達した制度である。

王は、宗教儀式を司るかフナと呼ばれるものの助言を得て、さまざまな禁忌を設けていた。

この制度は階級だけでなく、男性が女性を支配するような禁忌も含まれていたとされる。

この廃止を主導したのは、ハワイ王国やリホリホに強い影響力があり、このカプについて不満のあるとされていた リホリホの母であるケオープーオラニと摂政のカアフマヌという女性たちであった。


2つ目は、キリスト教布教の開始である。

1820年4月にアメリカのボストンからキリスト教宣教師の一団がハワイ島にやってきた。
それまでの欧米人の来訪などもあり、キリスト教の影響を少なからず受けていたが、この宣教師の一団の

来訪によって、その力はどんどん顕著となってきた。

この宣教師たちは、ハワイの古来からある考え方などは全く興味を示さず、キリスト教こそが唯一無二の存在であると信じ、ハワイの人々の意識、日常生活を根底から変革することに全力を捧げ、ハワイ語を文字化し、聖書をハワイ語に翻訳した。
当時はまだ肌を露出して生活していたハワイアンであったが、淫らであると非難し、服を着させ、フラを淫らな伝統であるとみなし、禁止しようとした。

ここで大きな問題であるのが、摂政であるカアフマヌがキリスト教に強い関心を示し、洗礼まで受けることとなったことである。政治的な力を持つ彼女の洗礼により、宣教師たちはキリスト教の勝利であると考え、

よりキリスト教、宣教師たちの力を増していくことになる。

そして、その後のハワイの歴史に大きく影響を及ぼし、その宣教師の子孫たちの多くが1893年の王国転覆に加わることとなる。

 

カメハメハ二世は妻 カママルらを従えてイギリスへ向かった。ハワイの王として初めて海外の地を踏む王となったが、到着時に妻のカママルは麻疹にかかって死亡。その後まもなくカメハメハ二世も後を追うように同じ麻疹にかかり死亡。まだ20代半ばであった。


カメハメハ三世(1813-1854)

名前は、

Keaweawe'ula Kiwala'o Kauikeaouli Kaleiopapa

1814年 ハワイ島生まれ。

父はカメハメハ一世。兄のカメハメハ二世が旅先のロンドンで死亡した後、

1825年 11歳であったカウイケアオウリはカメハメハ三世となった。

以後、1854年に亡くなるまで30年近くもハワイの王として君臨した。

歴代の中で最も在位が長かったにも関わらず、あまり知られていない王の一人である。

カメハメハ二世の時に摂政をしていたカアフマヌが引き続き摂政としていたため、
就任当初はカアフマヌが政治の実権を握っていた。

1832年にカアフマヌが死去し、その後王の姉にあたるキナウがカアフマヌの後を継ぎ、

クヒナ・ヌイ(摂政)の職を引き継ぐ。
この間に、カメハメハ三世は宣教師が運営する学校に通い、欧米式の教育を受けることとなる。

 

実質三世が政権を握るようになるのは、キナウがなくなった1839年以降である。

この頃になると、ハワイ王国は以前にもまして欧米社会の影響を受けるようになっていた。

ハワイに住み着く欧米人も増えてきて、その欧米人を中心とする宣教師の数も増え、

ハワイ各地で教会を作り、急速にハワイで広がっていった。

その中、三世はキリスト教徒となることはなかった。

 

この頃、貿易や人の出入りなどで欧米では珍しくない免疫のあるような病気がハワイに入り込み、

免疫のないハワイアンたちが病に倒れ、この30年の間にハワイアンの人口が半分近くまで

減少したといわれている。

ちなみに、この病たちによって三世の2人の子供も死亡。結局、キナウの子を養子として迎えることになる。

 

カメハメハ三世は、この頃すでにハワイアンだけの力では生きていけない状態となっていたため、

ハワイアンを残すためにハワイ在住の欧米人の忠誠を勝ち取り、その専門知識などを巧みに利用して諸外国と渡り合っていこうという選択肢を選ぶことにした。

 

それによって、大きな変化をもたらすことになる。

 

1840年カメハメハ三世はハワイ王国の憲法を制定することとした。

今までの王は神とつながる絶対的な存在であるから、国の在り方は王の心ひとつであったが、

憲法・議会ができたことで王は議会の意図を無視した政治はできなくなった。
そして、1852年には男性市民と一部の外国人にたいして選挙権が与えられることとなる。

つまり、王や政府が市民の意見を聞かないと政治ができなくなったのである。

 

さらに、王の所有物であったハワイの土地を分割して、人々に分け与えることに同意した。
ハワイの土地を分割して、その一部を人々に分け与えることにし、

土地の私有と売買が認められるようになった。

その結果、多くのハワイアンが土地を失うことになり、土地を分け与えられたハワイアンから外国人が

どんどん買い上げて(時には騙し)、広大なサトウキビ農場を作り始めた。

その後、ほとんどの土地が白人富裕層に占有されるという状況が作られ、多くのハワイアンが貧困に苦しむようになっていった。

 

1854年わずか40歳でカメハメハ三世は死去する。
なかなかうまくいかなかった面も目立つ三世ではあるが、ハワイの伝統を大切にしながも、近代国家を創り上げるにはどうすべきかを真剣に考えたその姿勢は、その後の歴代の王だけでなく今日のハワイアンにも受け継がれているといわれている。

カメハメハ三世がこうした課題に取り組むためのヒントを後世に残した言葉は、

Ua Mau Ke Ea o ka 'aina i ka Pono

意味は、「国家・土地の命は、正義によって守られる」。

今日のハワイ州の公式の標語として採用され、ハワイ州の紋章にも使われている


カメハメハ四世(1834-1855)

名前は、

Alekanetero (Alexander) Liholiho Keawenui 'Iolani

1834年 カメハメハ一世の孫として生まれる。

母はカメハメハの娘キナウ、父はオアフ島の知事を務めたケクアナオアという有力者。

兄のロットと共に、子宝に恵まれなかったカメハメハ三世の要旨となり、幼いころから

ハワイ在住の宣教師のもとで、将来の王として英才教育を受けた。

1854年に三世が死去すると、翌月に即位する。

1856年 カメハメハ一世に仕えたイギリス人ジョン・ヤングの血を引く裕福なハワイアンの女性である

エマ・ルークと結婚する。

 

この頃の最大の懸念は、人口問題だった。

ハワイアンの人口は急激に減少し、18世紀末の人口は20万人いたのにもかかわらず、

この頃には7万人。この頃の人口問題の原因は、伝染病であった。

1853年から54年にかけては天然痘が大流行し、2400人以上の住人がなくなったといわれている。

カメハメハ四世とエマ王妃はこの状況にひどく心を痛め、早急にハワイアンのための病院をつくることに

尽力した。

1858年に二人の間に第一子が生まれるが、1862年に第一子である4歳のアルバート王子が病に倒れ、死去。

アルバート王子がなくなったことで、四世もエマもハワイ王国の未来が消えてしまったように感じ、

落胆していた。その中で、四世は友人であるニールセンがエマと親密な関係にあると誤解し、ピストルで

胸を打ってしまう。その傷が原因で、ニールセンは死去。

その後誤解だとわかると、カメハメハ四世は自分の行いを深く悔やみ、ひどく落ち込んだ。

王であるため逮捕はされなかったが、この失意のどん底から這い上がれず、

1863年11月エマに看取られ、死去。在位9年、若干29歳であった。

 

カメハメハ四世はエマ王妃と共に、アメリカよりもイギリスに対して親近感を抱いていたため、

イギリスよりの態度などを行っていた。

この四世のイギリス寄りの態度は、フラの伝統においても興味深い影響を与えることとなる。

というのも、イギリスの宗派はフラのような儀式的な側面が強い伝統に対する抵抗感はそれほどなかった。

カメハメハ四世の葬儀には多くのハワイアンが出席し、「伝統的なハワイアンの祈り」を唱えたことも、

その抵抗感の低さを表すものであった。


カメハメハ五世 (1830-1872)

名前は、

Kamehameha Lota Liholiho Kapuaiwa Kalanimakua Kalanikupuapaikalaninui Ali'iolani Kalani-a-Kekuanao'a

1830年に生まれた。

母はカメハメハの娘キナウ、父はオアフ島の知事を務めたケクアナオアという有力者で、
弟であるカメハメハ四世と共に、カメハメハ三世の養子となる。

プリンスロットと呼ばれるカメハメハ五世は、弟よりも内向的であるとされ、王位に就くのも先を越されることになったが、実際に王となると、ハワイのことを深く考え、王の権力を強化するために様々な政策を実施しようとした。

 

1863年に四世が死去し、カメハメハ一世の血を引くロットが後継者として指名された。

国民から四世に比べて国を統率する力が欠けているとされていたが、運命を受け入れ五世として君臨することとなる。

在位は9年であったが、欧米系の住人の権益を代弁する声には流されず、ハワイアンの王として王の権力を強化しようと努力した。その姿勢は1864年に発布した新憲法に体現された。

ロットは王の力を強めるために、議会の権力を制限すべきであるとも考え、従来の二院制を一院制として、

そこに王の権益を代弁する勢力を配置した。さらに、クヒナ・ヌイと呼ばれる摂政の制度を廃止した。

過去の歴史から、摂政が実権を握り王の意向と異なることが起きないようにすべきだと考えた。

ロットの考えた憲法案は簡単に認められなかったため、1864年に自らの判断で新憲法を発布した。

新憲法には、王の権利を強くする代わりに、ハワイアンの権利を従来より制限する項目も含まれていた。

発布後にハワイ島々を回り、民衆に理解を求め、ハワイアンの住人は支持し、五世を暖かく迎えたという。

ちなみに、この憲法がハワイで発布された憲法の中で一番長く使われるものとなった。

 

五世になっても、四世の時にあった人口問題は引き続きの課題であった。

急成長するサトウキビ産業において、深刻な労働力不足をもたらうこととなったため、

1860年代に入ったら期限付き中国人労働者、1868年には日本人労働者がハワイに渡ってくることとなる。

 

五世はキリスト教の影響の強い教育を受け、欧米のキリスト教国の現状も理解していたが、

ハワイアンの伝統を守ることにこだわり、チャント(詩)やフラを奨励した。

完全復活までは至らないものの、王自らがハワイの伝統として改めて認知し、守ろうとしたことには

きわめて意味深いものであったと思われる。

 

1872年、カメハメハ五世は在位9年でこの世を去った。

結婚せず、子供もいなかった王は、死の間際に従妹のバーニス・ビショップを後継者に指名したが、

彼女は受諾を拒否した。

王位を継いだルナリロは、カメハメハと異なる系譜のアリイであるため、

ハワイ諸島統一したカメハメハ一世から始まったカメハメハによるハワイ統治は終焉を迎えた。


ウィリアム・チャールズ・ルナリロ (1835-1874)

名前の表記は、William Charles Lunalilo
1872年にカメハメハ五世が死去すると、後継ぎがいなかったため、ハワイの憲法に従い

議会が選挙で王を選ぶこととなっていた。

まずは、国民投票が行われ、人々が選んだのは若い頃からハワイの有力なアリイとして政界で活躍、

気さくな人柄で大衆に高い人気のあったルナリロであった。

彼の人気は、ほかのライバルをはるかにしのぐものであり、国民投票の結果を受け、議会も満場一致で

ルナリロを王として指名することとなる。

 

1873年1月 ルナリロは第6代王に就任した。今までのカメハメハの直系が途絶えたものの、

「人々の王」と称された新しい王の誕生に、誰しもがハワイ王国の安泰を感じた。

 

スタートが順調であった政権もすぐに大きな問題に直面することとなる。

サトウキビ産業の成長のために、アメリカと条約を結ぶ必要性が出てきたことである。

アメリカと条約を結ぶことで、ハワイからの砂糖に関して関税をかけないように求めた。

アメリカ側にその見返りとして、真珠湾を提供することが検討されることとなる。

当時ルナリロは白人有力者層に説得され、真珠湾の独占的使用をアメリカに認めるのはやむをえないと

考えていたが、多くのハワイアンは強く反対し、ルナリロの熱狂的に支持していた多くのハワイアンは政府を批判するようになる。この反対運動に直面し、ルナリロはアメリカとの条約締結を諦めたが、

それはサトウキビ農場の経営者たちを大いに落胆させ、

ルナリロの指導者としての能力を失望させるものとなった。

 

19世紀を通して、ハワイアンの人口が急激に減ることについては、王族も例外ではなかったため、

短命の王が続くこととなっていた。

ルナリロは、この状況に強い危機感を抱き、残されたハワイアンに対して健康に留意するよう指示。

しかし、そんなリナリロの体も病に蝕まれていた。即位後、風邪を拗らせ、肺を患ってしまう。

健康状態はまったく改善せず、多くの政治的な懸案事項を残したまま、ホノルルからハワイ島のカイルア

で療養。しかし、酒好きとしても有名なリナリロは肺病をさらに悪化させる。

 

1874年、ハワイでは王国議会の選挙が行われ、ハワイ王国の成人男性によってえらばれた新議員らとともに

ルナリロはその後のハワイ王国の政治を積極的に変革していくはずであったが、その翌日の夜に死去。

わずか39歳、在位1年と25日であった。

また、ルナリロもカメハメハ五世と同じく、後継者を指名しないままこの世を去った。

 

ルナリロは生涯独身であった。

彼はカメハメハ四世、五世の妹にあたるヴィクトリア・カママルの恋人であったといわれている。

家柄などは結婚相手にふさわしいとされていたが、ハワイの伝説によると、二人の間の子供は

カメハメハ四世、五世よりも強いマカ(力)を持つ存在になると考えられてたことから、

四世、五世が強く結婚に反対したといわれる。

そんな彼女のことを思いルナリロによって作られたとされる曲が、「アレコキ」。

アレコキという名の池のほとりで恋人を待ち続ける若い男の思いを歌った曲。愛しい女性は姿を現さないという悲しい内容の曲である。

そんな二人だが、結局恋は成就しないまま、カママルは1866年に若くして死去。

 

結婚せず子供もいなかったルナリロは膨大な財産を残したまま死去したため、彼の遺言通り「貧しく、年老いた、病気のハワイアン」を助けるための「ルナリロ・ホームズ」を設立するための資金に使った。

リナリロが死去して140年以上たった今日もハワイに残っている。


デビッド・カラーカウア (1836-1891)

名前は、David La'amea Kamanakapu'u Mahinulani Nalaiaehoukalani Lumialani Kalakaua-a-kapa'akea

1836年、カメハメハ三世の治世下のホノルルで生まれた。

父はカパアケアと母親はケオホカーロレはカメハメハの血を受け継いでいなかったものの、

支配層であるアリイであった。カラーカウアは幼いころから欧米式の教育を受けつつ、ハワイの伝統文化も学んだ。当時の多くの指導者と同様、英語とハワイ語を話し、欧米の文化とハワイの文化に精通。

 

法律を学んだカラーカウアは若い頃から貴族院議員として活躍、政治的野心にも満ちていた。

1874年にルナリロが死去すると、カラーカウアはルナリロが当選したときに続き、2度目の立候補をする。

対抗馬はエマ妃であったが、彼女の反米姿勢を危惧し、白人有力者たちの力により

カラーカウアは念願の王となる。

 

カラーカウアのあだ名は「陽気な君主」で、美食家で酒を好み、豪華な宴を行い夜遅くまで遊んでいた。

しかし、いつも遊んでいるだけではなく、様々な政治的、経済的な問題に直面し、それらを解決するために苦心した。

エマに勝つために白人有力者の力を借りたため、その代わりに砂糖の関税免税と引き換えに行うルナリロが諦めた真珠湾の独占的利用をアメリカにさせるための契約の終結をし、移民の受け入れを行った。
このような経済中心の政策をしていくだけでなく、ハワイアンへの配慮をしなくてはならなかった。

 

1883年就任9年目にして、載冠式を行った。

それに伴い、盛大な祝宴を行い、ハワイの島々から招待されたクムフラと生徒がフラを演じた。

大衆を前に公の場で踊ったということが、「フラを復活させた王」という言われる所以である。

これは、伝統を守るというものだけでなく、離れつつあったハワイアンの支持を得るための

政治的政策の一つでもあった。

 

この後も、ハワイ文化を守りつつ、他国との関係を深めるという政治姿勢は矛盾に満ちたまま、

最後まで矛盾を解決することはできなかった。

1887年に欧米市場を重視する資本家グループの反発を受けた影響で、新憲法の発布を強要される。

その新憲法により、ぷとしての政治的権力をほとんど奪われる。

失意のうちに体調を崩し、1891年死去。

 

カラーカウアは日本とハワイの関係を深めようと尽力したことでも知られている。

1881年、ハワイの君主として初めての世界一周の旅に出かけた際に、日本にも立ち寄っている。

明治政府に歓迎され、近代化に邁進する日本の姿に感銘を受けたこと、そのころのアメリカからの圧力等

を考え、日本と連合を組むことを考えていた。
その際に姪で大変美しいカイウライ王女を山階宮定磨親王に嫁がせたいと明治天皇に提案した。

日本政府はアメリカが狙っているハワイと手を組むことはけしていい案ではないと考え、

この縁談は成立しなかった。


リディア・リリウオカラニ (1838-1911)

名前は、
Lydia Kamaka'eha Kaola Mali'i Lili'uokalani

 

1838年に生まれ、ホノルル市内に設立されたハワイの王族が通う学校で教育を受けた。

1891年兄のカラーカウア王が死去後、リリウオカラニはハワイ王国第8代の王として就任。

本来は弟のレレイオーホクであったが、1877年に死去。カラーカウアはリリウオカラニを後継に指名。

ハワイで最初の女王となった。

 

女王となったリリウオカラニは王の権力を復活させるために様々な政策を開始。

女王が白人住人を中心とする議会の激しい抵抗、ハワイ王国の経済悪化の中で、

アメリカやイギリスがいろいろな理由をつけて海軍を派遣するようになる。

 

1893年にハワイに在住白人富裕層が中心となった団体はホノルル在住のアメリカ行使とホノルル沖に

停泊していたアメリカ海軍の協力を得てクーデターを起こし、ハワイ王国が倒される。
その後、暫定政府が設けられ、翌年にはアメリカからきた宣教師の子孫であるサンフォード・ドール

(ハワイでパイナップル王といわれたハワイ・パイナップル者の創立者の従妹、のちに買収等あり、フルーツブランドのドールとなる)を大統領とするハワイ共和国が設立された。

1895年 ハワイ共和国を転覆させようとした罪に問われ逮捕される。5年の禁固刑という有罪判決を受けたが、イオラニ宮殿に8か月幽閉中に王位を永遠に放棄する宣誓書に署名を強いられた。

この際に、国の存在を守るか、ハワイアンの命・魂(マナ)を守るかということを考え、

彼女は命があればハワイアンとしての魂は残り、国もいつか戻るかもしれないとかすかな期待を抱いたと

されている。

それでもリリウオカラニはあきらめず、アメリカ本土に渡りハワイ共和国とその設立を手助けした

アメリカ合衆国の不正義を訴えたが、ハワイをアジア貿易への格好の中継地とみなすアメリカの利権を

覆すことはできなかった。

1898年になると、アメリカ合衆国に併合され、独立国家としてのハワイは終焉を迎えることとなる。

リリウオカラニは王位のみならず、国までも失った「悲劇の女王」と記されることが多い。 

 

リリウオカラニは音楽家としての一面ももった女王であった。

彼女の最も有名な作品は、幽閉されていた間に作成されたといわれる「アロハ・オエ」である。

実際は、1878年にオアフ島を旅した時に作成された愛の歌であるが、

幽閉されている間に5線で楽譜を書いたといわれている。

幽閉されている間にこの曲はシカゴの出版社に送られて、好評を博した。

そのため、リリウオカラニが保釈後に本土に渡った時にはすでにアロハオエは人気のある曲となっていた。

リリウオカラニは生涯に何百もの作詞作曲をし、キリスト教徒でもあったこともあり讃美歌として今でも歌われる曲も多くある。